
episode 01.
「コロナが奪った高校最後のシーズン、アメリカがくれたもう一つのフィールド」
コロナ禍の2020年、高校3年生だった中島駿乃介さんにとって、その年は大切なシーズンの喪失から始まりました。新型コロナウイルスの影響でまともに部活もできず、夏のインターハイは中止に。開催が危ぶまれた高校最後の大きな大会、第99回全国高校サッカー選手権。なんとか予選から開催され、中島さんはキャプテンとして全国の舞台に出場することができました。それでも、大切な1年のほとんどを自宅で過ごす日々。目標を見失いかけていた彼にとって、将来への不安は日増しに大きくなっていきました。
そして、中島さんは「スポーツ留学」に希望を見出し、未知の世界への挑戦を決意します。 人生の再スタート。 パンデミックが閉ざした道の先に、新たな扉が開かれていました。
episode 02.
「英語の壁と190cmの壁、カンザスでの苦闘」
アメリカで最初に入学したのは、カンザス州の学校でした。どこまでも自然が広がる、良くも悪くも田舎と呼べる場所にある学校。遊びに行く場所も少なく、車がなければ何もできない生活でした。加えて、日常生活でもサッカーでも、“英語”という見えない壁に直面しました。
監督の指示も聞き取れず、チームメイトとの連携も取れず、先輩の通訳を頼りにグラウンドを走る日々。日常会話に加え、授業を理解し、毎日の課題をこなすにはかなりの努力が必要でした。また日頃の練習では、サッカーに対する考え方や取り組み方も日本との違いを感じながら、なんとか練習についていきました。190cmを超えるアメリカ人選手との対峙では、「これは別のスポーツか!?」と感じたこともあったと、当時を振り返って笑います。
それでも半年後にはサッカーに関してなら、ある程度聞き取れるようになり、試合中に困ることも少なくなりました。2年目には授業も会話も問題なくこなせるように。試合の翌日には、「昨日試合に出てたアジア人だよね?」と街で話しかけられることもあり、田舎ならではの嬉しい出来事だったと話します。「苦しかったけど、自分を試せる時間だった」とアメリカに来た最初の頃を振り返ります。
episode 03.
「変化を恐れず、自分を主張するということ」
転機となったのは、人口も学生も多い学術都市、ボストン郊外の学校への転入でした。住む街も大きくなり、多様な人々、ボストン特有のアカデミックな環境は、彼の意識を大きく変えていきました。小さな頃から得意なサッカーを武器に渡米してきたが、「サッカーと学業を両立させたい」という気持ちも強くなっていき、知識を増やすことに対しても魅力を感じるように。英語での授業にも慣れ、プライベートの時間も大切にする日々を送っていきます。
一番のカルチャーショックは、「自己主張」の文化。監督に「出たいならアピールしろ」と言われたとき、控えめが美徳とされる日本文化の中で育った彼にとっては、大きな衝撃だったそうです。けれど、その一言が、自分の意識を変えるきっかけになりました。4年が経った今では、アメリカ式の「自己表現」にも慣れ、ピッチでも日常でも“自分の声”を持つことの大切さを実感しています。
そんな中島さんに留学中のリフレッシュ方法を聞いてみました。
episode 04.
「夢を追う最後の年、未来の自分に誇れるように」
現在、大学院最終学年を迎えた中島さんにとって、この1年はプロへの道を見極める勝負の年となります。3歳から始めて人生の大部分を占めてきたサッカー。プロでやりたいという気持ちも強くなり、スカウトの目に留まるような選手を目指して練習に励んでいます。「自分がプロサッカー選手から夢をもらったように、自分も子どもたちに希望を与えられる選手になりたい」と語る姿からは、日々積み重ねてきた努力と覚悟を感じます。
その一方で、学業面ではMBA取得に向けて高い目標をかかげ挑戦を続けています。「MBA取得も簡単なことではない」と実感しながらも、それが将来的にどのようなアドバンテージになるか考えながら、ひたむきに取り組んでいます。
「サッカーがダメでも終わりではない。」そんな思いとともに、将来的には、英語を使って日本と世界をつなぐような仕事を通して、スポーツの価値を広めていきたいという目標も描いています。日本へ戻る日まで、自分を磨き、夢を追い続ける。そんな覚悟が、言葉の端々から伝わってきました。
アメリカにいる子どもたちに向けたメッセージとして、中島さんはこう語ってくれました。
困難の中でも一歩を踏み出す勇気。アメリカの広大なフィールドで、その歩みは今も確かに輝きを放っています。
今後の試合の予定はこちらからご確認ください。